恵美は昇の部屋の前に立つ。ライフルには十発の弾が込められている。もしも、ここに逃げ込んだのならば、まず間違いなく仕留められる。恵美は脂汗で湿った手を服で乱暴に拭くと、ライフルを握り直し、勢い良くドアを蹴った。ドアはガタンという激しい音と共に観音開きになる。
目の前に望が立っていた。窓を背にして、恵美を真っすぐ見つめている。首筋にびっしりと汗の玉を滲ませた望は、処刑を免れた犯罪者のように憎たらしく笑っている。恵美はすぐには撃たなかった。息を落ち着かせ、望の顔面に狙いを定めたまま、ゆっくりと室内に入ってゆく。そして、逃げ出せないように、扉の移動する範囲で足を止めた。
ライフルの銃口は水平に保ったまま、恵美は瞳を鋭く光らせて望を睨み付ける。望はその眼光を虚ろな瞳で見返している。一瞬の静寂。
「‥‥どうして、真一郎を殺したの?」
「光を犯したんだ、真一郎の奴。だから、殺した」
望の瞳は何の変化も無い。決められた言葉をそのまま並べたような、そんな感じだった。ライフルを構えたまま、恵美は一瞬自分の耳を疑ってしまった。
真一郎が光を犯した? そんな馬鹿な。何故真一郎がそんな事を。恵美には信じられなかった。その驚きが顔に出たのか、望が顔を歪ませる。苦痛に歪んだ、酷い顔。
「嫌な奴だよな。俺が光の事を好きだって知ってたのにやるなんて‥‥。信じられないよ。信用してたのに‥‥」
メトロノームのリズムのように、望の声が恵美の耳を犯していく。恵美は自ら絶叫し、そのモノローグを切り裂く。
「うるさい! 真一郎がそんな事するはず無い! 何かの間違いよ、それは」
しかし、それでも望のモノローグは続く。果ての無い詩を歌うかのように。
「そんな事無い。だって、俺見たんだ。昨日の昼頃、庭の近くの森の中で抱き合う光と真一郎を」
何の盛り上がりも無い詩は、歌い続けられる。恵美は気が狂いそうになるのを必死に堪えながら、ライフルの銃口を望に構える。
真一郎がそんな事するはずがない。自分が一番よく、真一郎を知っている。あの人は私から離れられない。私を置いて勝手に死ぬはずがない。ビデオなんて信じるものか。この目で見ないと信用出来ない。勝手に他の女に手を出すはずがない。
真一郎、早く出てきてよ。私を安心させてよ。止まらない涙を拭いてよ。
早く! 早く!
「‥‥」
恵美の持つライフルの銃口が焦点を失って、震えだす。蒼い涙が、ライフルにボタボタと落ちる。
望は目から涙を零す。ライフルに狙われている事など、まるで分かっていないかのように。そして、立て膝をついて、その場に倒れこむ。
「光は何も知らなかった。男を愛するという事も、男に愛されるという事も。なのに、なのにあいつはそれを粉々に砕きやがった。許せなかった。たかが一般人からの成り上がりのくせしやがって光に手出すなんて‥‥。くそっ、殺したのに何でまだ憎いんだ?」
手の隙間から零れ落ちる涙。涙でぼやける、望の瞳。恵美は込み上げる震えを抑える事が出来ないが、それでも泣き崩れる望から狙いを外さない。しかし、自分の指が引き金にかかっている事すら忘れてしまう程、頭の中は錯乱していた。
「うるさいって言ってるでしょ! 黙れ! 黙れ! 黙れぇ!」
煙のように体の中を動き回る猜疑心を振り払う為、恵美は叫ぶ。もう理由なんかどうだっていい。目の前で泣いているこの男が真一郎を引き離した。それだけで十分だ。引き金を引いてやる。恵美は一度瞬きをすると、引き金にかかる指に力を込めた。
涙で濡れた手をふと膝の上に置いた望は、突然泣くのをやめて不気味な笑みを恵美に投げ付けた。トカゲでも犯罪者でもない。死んだ魚のような無機質な目。
「俺の前に、別の人殺したら?」
その言葉を聞いて、恵美は引き金のかかった指を止めた。そして、次の瞬間に体中に痺れる程の悪寒が走った。別の視線を感じた。いや、視線ではない。敵意だった。恵美は開かれた右側の扉に向かって引き金を引いた。銃口から飛び出した銃弾が扉に穴を開ける。それと同時に別の弾が扉から飛び出した。
しまった、と思った。ここは昇の部屋。つまり、ここにはもう一人、人間がいたのだ。優香という名の人間が。恵美の脇腹を銃弾が貫く。痛みは無い。恵美は自分が撃たれた事も分からないまま、扉に向かって有りったけの弾を撃ち込む。扉の方からも数発の弾が飛び出す。優香は拳銃を両手でしっかりと構えたまま、扉に向かって銃弾を発射する。鼓膜を引き裂く程の銃声が幾重にもなって聞こえる。扉に無数の穴が空く。木の破片が飛び交う銃弾の中で刹那のダンスを踊る。
「‥‥」
数秒経った後、恐ろしい静寂が辺りを包んだ。恵美は何も見えていなかった。両目をやられていた。頭の奥の方が痒い。顔に何か暖かいモノが流れているのが分かる。手に持ったライフルが、ひどく重く感じる。体中が寒い。まるでたくさんの穴が空いているかのようだ。そうだ、自分は撃たれたのだ。それで、相手はどうなったのだろうか。恵美は上体を起こそうとする。しかし、力が入らない。考えみれば、一体自分はいつ寝転んだのだろう。それすら思い出せない。そして、思い出せないまま、目の前が闇だという事も分からなくなってしまった。ただ思考だけが当ても無く動いていた。
「‥‥」
ねえ、真一郎。あなた、今どこにいるの? あなたに会いたいよ。目の前が真っ暗になったけど、あなたなら触れただけで分かるから。だから、早く来てよ。何してるのよ、もう少しで私は遠くに行っちゃうのよ。早く私の体を抱いてよ。
‥‥仕方ないわね、私がそっちに行ってあげるから、だからあんまり悲しい顔しないでよね。
「‥‥」
望はゆっくりと立ち上がると、恵美の死体の傍に立った。何度触れたか分からない美しい体に無数の穴が空き、そこから深紅の血が噴水のように溢れている。たまに血に交じって桃色の肉片が零れる。両目が綺麗に打ち抜かれていて、そこから血の色をした涙が流れている。いや、涙ではなく血なのかもしれない、と望は思った。絨毯の上に広がる赤毛が、血の中に浸って、本物の赤になっている。
ライフルを握る手に力が入っていない事を確かめた望は、大きな穴の空いた扉の向こうを見た。優香は壁にもたれながら小さな呼吸を繰り返している。顔には傷一つ無い。しかし、腹に数発の銃弾が食い込んだらしく、溢れ出る血を両手で押さえている。肺をやられて苦しいのだろう、と望は他人事のように思う。
「‥‥」
優香は体中を駆け巡る激しい痛みに耐えながら、扉に出来た穴の向こうからじっとこちらを眺めている望を見た。映像がぼやけて、それが本当に望なのかはっきりしない。動く力も無い。かろうじて、口を開く事だけは出来た。
「助け‥‥て」
「‥‥」
望は面倒臭そうに首を振ると、優香の隣に来てしゃがみこんだ。いつかシャワー室で抱いた時はあんなに綺麗でさらさらしていた長い黒髪が、今は油でもついたようにべとついている。下の方は血で濡れていた。髪の毛の先から血が滴り落ちて、下に小さな血溜まりを作っている。望は顔を上げると、優香の頬についた血を舌で舐める。血で真っ赤に染まった服越しから、胸に触れる。胸は今でもふくよかに望の手の中で揺れた。
「赤く染まった母さんも、綺麗で素敵だと思うよ」
「‥‥」
「でも、これじゃあ、もう助からないね」
望はそう言うと、優香の手から拳銃を抜き取り、それを部屋のソファの近くに投げた。そこには、あの少年が立っていた。少年は震える事も無く、泣く事もせず、その場に立って足元に落ちた拳銃と望を交互に見た。望は少年に言う。
「お前が殺せ。その方が、母さんも幸せだろうからな」
それだけ言うと、望は恵美の死体をまたいで部屋を出ていってしまった。少年はその後ろ姿を見ていたが、その姿が消えるとゆっくりとした仕草で拳銃を拾った。優香がその様子を見ている。小さな呼吸が次第に回数を減らしていく。
何故、恵美を撃つ事に同意したのだろう? 優香はボロボロになった扉の向こうで横たわっている恵美の死体を眺めながら思った。彼女を撃つ意味など無かった。向こうも、こちらを撃つつもりなど無かった。彼女は望だけ殺せればよかった。なのに、何故私が彼女を撃たなければいけなかったのだろう。
そうだ。一瞬。ほんの一瞬だけ、彼女が自分の足を掴んだように思えたからだ。翔んでいる私の足を掴み、引きずり堕ろそうとした。私を再びあの汚い街に戻そうとしたのだ。だから撃ったのだ。まだ、翔び続ける為に撃ったのだ。
少年は優香の元に歩み寄った。そして、優香の隣に座り、壁を背を預ける。優香はそこまで首が回らず、少年の足元を虚ろな瞳で見る。それは流し目をするかのように美しい。少年は拳銃を両手に持つ。
「選んでください。僕から死ぬか、あなたから死ぬか」
少年は赤く染まった優香の髪の毛を、自分の首に絡み付けた。優香は前を見たまま、ふふっと笑った。少し悔しかった。自分の最期を見取ってくれるのが、オークションで買った少年とは。
自分は実力のこの地位を手に入れた。這いずり回る事をやめ、空を飛ぶ権利を捕まえた。だから、二度と地面に降りずに、木の枝にしがみ付く毛虫を啄ばんではいつまでも飛んでいられると思っていた。なのに最期はその毛虫に食われようとしている。雌の狼に足を食い千切られ、瀕死の自分に近寄ってくる一匹の小さな毛虫。その毛虫に、自分の最期が決められようとしている。
「私は‥‥今でも毛虫なのかしら?」
「蝶でしたよ。でも、どんな蝶でも、いつかは疲れ果てて地面に落ちてしまう」
この子は本当にいい事を言ってくれる。いつまでも毛虫を嫌悪していたのに、最期は毛虫にしか話し掛けられてもらえない。自分は、本当にこの子の言っているように蝶だったのだろうか。結局、自分は蝶になる夢を見ていただけの毛虫だったのかもしれない。
「‥‥あなたから死んで。心配しなくていいのよ、すぐに後を追うから」
私は蝶でいたかった。そして、きっと蝶になったのだ。ほんの少しの間だったけれど、確かに自分は蝶だった。この子がそれを教えてくれた。
少年は赤い髪の毛を手の中でいじりながら、
「分かりました」
と呟いた。そして、自分のこめかみに拳銃を当てて何の躊躇いも無く引き金を引いた。乾いた音が響く。さっきとは随分音が違うように聞こえた。
少年の頭が優香の太股の上に落ちた。こめかみから流れる血が、優香の太股を濡らしていく。優香は痺れる手で少年の柔らかい髪の毛を撫でる。まるで我が子を膝の上に抱きながら、子守歌を聞かせようとする母のように。
少年の顔は穏やかだった。彼はきっと死ぬ事など恐れていなかったのだろう。羨ましかった。ずっと毛虫のままでいようとしていれば、自分も生きる事に藻掻かなかったかもしれないのに。
「‥‥」
ああっ、もう少しで自分は死んでしまうだろう。一体今まで私は何をしてきたのだろう。こんな所で死ぬならもっと色んな事をしておけばよかった。永遠に生きられたら、きっと自分の知らない事など無くなるだろう。でも、永遠に死ななかったら、もし大切な人に会った時、永遠に別れてしまう事になってしまう。だったら、いつかは死んでもいいかな。考えてみれば、今までこの少年程大切な人はいなかったかもしれない。なら、私が死ぬのは今なのかな?
息が途切れるまで、優香は少年の髪の毛を撫でていた。
望は扉を開けた。そこには光と舞夜がいた。赤いのドレスの光に、白いブラウス一枚の舞夜。二人はベッドの上で、何か楽しそうに話している。ベッドの後ろにある窓には、相変わらずの小雨が見える。二人はまるで小雨の中にいるかのようだ。部屋には明かりがついていない。そのせいか、室内はとても暗かった。
望は安心したように微笑み、二人との距離を縮めた。
「良かった。お前は無事だったんだな」
そう言うと光は望の方に目を向けた。そして、可愛らしい笑顔を見せる。その笑顔は昔から全く変わっていない。永遠に変わる事の無い笑顔。
「ええっ、兄さまのお陰で。さあ、早くこっちに来て」
舞夜も笑い、手招きをする。それに吸い寄せられるように望は二人に近づく。まるで本人が望んでいないのに、勝手に足が動いているかのようで、上半身と下半身の動きがバラバラだった。
望がベッドに腰を降ろすと、光が背中に抱きつく。舞夜が子猫のように太股に擦り寄る。望は右手で舞夜の頭を撫でながら、左手で光の手を掴んだ。光の鼻先が、望の後頭部に触れる。
あれ程憎んでいたはずなのに、何故か望は舞夜の笑みを見て嬉しいと感じた。まるで嬉しいと感じろ、と誰かに命令されたかのような気だった。それが誰なのかは分からなかったが、抵抗出来なかった。しかし今はそれよりも、愛してやまなかった光が、目の前にいる事の方が遥かに心を占めていた。
「‥‥見たんでしょう? 真一郎さんと私の姿」
光の声は沈んでいた。それはさっき見せた笑顔からは想像も出来ない程、暗く落ち込んだ声だった。望もしばらくは無言のままでいたが、光の手を手繰り寄せるように強く握ると口を開いた。
「ああっ。とても嫌だっただろう?」
「ええっ。非道く痛かったわ。まだ、体の中であの嫌な感覚が残ってるみたい‥‥」
光の頬が望の肩に触れる。そこに水の感触が広がる。泣いているのだ、光は。望は舞夜をゆっくりと退かすと、光の正面に体を向け、腕の中に包み込んだ。光は抵抗する事無く望の胸の中で泣いた。そして、三十秒近く泣いた後、急に顔を上げた。
「だから、別の色で塗り潰したいの」
「‥‥どんな色?」
「‥‥お兄ちゃんの色」
望は光の顎に手を添える。添えた手に光の涙が付く。望はそれを舌で拭うと、そのまま光の頬を舐めた。光は両腕を望の背中に回す。舞夜はそれを眺めながら、声を出さずに笑っている。
望は光に口付けをした。三年も夢見た唇。自分を一番よく知っている唇。でも、それは昨日真一郎によって汚されている。それを全て吸い取ってしまおう。嫌なモノを全て吸い出して、もう一度光を綺麗にしよう。望は光の唇を強く吸いながら、そっと背中にあるドレスのチャックに手をかけた。段々と覗かせる白い背中の感触は、恵美よりも舞夜よりも滑らかで心地好く、それだけで射精感を覚えた。
背中に誰かが絡み付いてくる。舞夜だった。前のはだけたブラウス姿の舞夜が、望の項をペロペロと舐めている。ほんの少しザラザラした感触。やっぱりこの子は光とは違う。だって、この子の舌は光の舌に比べてずっとザラザラしているのだから。
唇を放した光は、上目遣いで望を見つめたまま、ドレスを脱ぎだした。恵美や優香の血の色に似たドレスを脱ぐと、美しい裸体が見える。光はブラジャーもパンティーもつけていなかった。小さな胸も股も露になる。望は太陽の日に当たる事も無い光の体を、じっと眺める。光はくすりと笑うと恥ずかしい、と小さな声で言った。
ドレスを脱ぎ終えた光は再び望の胸に顔を埋めた、そして、望の胸板を円を描くように撫でる。望は片手を舞夜に舐めさせながら、もう片方の手で光の腰辺りに触れる。綺麗にくびれた腰は、望の手が触れる度に左右にしなる。
舞夜の唾液で濡れた手を、望はゆっくりと光の股に当てがる。光がそれを拒まないのを知ると、そのまま指を光の中に埋めていく。光は望の胸の中で微かに震えて、胸板を撫でる手を止める。望は光の顔を上げさせ、再び唇に絡み付く。舌で歯をなぞり、互いの舌を重ね合わせる。望の舌に光の唾液と熱い吐息が、まとわり付く。
舞夜が二人の間に顔を挟み、光の胸に舌を這わせる。光が目を閉じて呻くと、舞夜は乳首に歯を立て、望は光の中に埋めた指を前後に激しく動かす。光の柔らかい肌に珠雫が滲みだす。快楽に身を動かすとその雫が下に落ち、舞夜の額に落ちる。舞夜はそんな事は気づいてないようで、胸の愛撫を続けている。額や首元に汗が浮かんでいるのを見た望は、余っている手でそれを掬い、自分の舌になすり付ける。何の味もしなかった。残ったもう片方の手は、光の中で激しく蠢き、光の肢体を震わせている。
ゆっくりとその手を引き抜く。手は透明の糸をのばす程、べとついている。それを舞夜に舐めさせながら、ゆっくりと光の体を自分の体に近付ける。望の性器が、さっきまで指の埋もれていた部分に刺さってゆく。光は強く首を降って、望の背中に絡み付く手に力を込める。舞夜は光の背中に抱きつくと、背中全体に浮かんだ汗を全て拭うかのように、舌を這わせていく。そうしながら、右手をゆっくりとベッドの下に潜り込ませる。
何もかも忘れて、光を上下に揺らす望。真一郎を殺した事も、恵美と優香が死んだ事ももうどうでもよかった。そして、これからどうなろうとも、気にするつもりは無かった。今、この瞬間があればそれで良かった。
まるで悠久の時間を過ごしてきたような、そんな感覚が望の中にはあった。その長い時間の中で、色々なものを捨てて、色々なものを手に入れた。自分を理解しない者達を捨て、本当に自分を愛してくれる者を手に入れた。
たった一人の少女。それは血を分けた妹だった。でも、それが何だと言うのだろうか?妹だったから、愛するのをやめろと言うのか? もう手遅れだ。何もかも。愛する事を止める事など出来ない。この愛を手に入れる為に、一人人間を殺したのだ。この愛を忘れる為に、何人もの人間を殺したのだ。そうしてまで、この少女の愛が欲しかったのだ。
その少女が今、自分と一つになって体を揺らしている。底知れぬ快楽に身を委ね、全てを自分に曝け出している。時折見せる涙の潤んだ瞳が、その現実を色濃く脳裏に焼き付ける。宙を泳ぐ髪の毛が、現実の心地好い香りを運んでくれている。
自分は勝者だと、改めて感じる。真一郎も恵美も優香も敗者だったのだ。彼らは生まれた時は勝者ではなかった。敗者だった。それを勝者の気紛れで、偶然勝者の所にいるに過ぎなかった。落ちて当然だ。もともと、お前達は空など飛べなかったのだ。落ちて当たり前なのだ。そして、勝者が勝者と共になるのも、また当然なのだ。
休む事無く、光の体を揺らし続ける望。光は望の肩を両手で掴むと、恍惚に満ちた瞳を望に向け、口を開ける。
「兄さま」
「‥‥何だい?」
「でもね、飛ぶ鳥が落ちてしまう事なんて、よくある事なのよ」
次の瞬間、望の首に暖かい感触が風が吹くように走り抜けた。望は光を揺らすのをやめて、自分の首に手を当てた。血が付いていた。横を向く。小さな、まるで玩具のような拳銃を持った舞夜がいた。顔は笑っていた。そして、もう一度引き金を引いた。パンという少し湿った音が響き、首に添えていた手の親指と人差し指が消えた。もう一度、音が聞こえた。三十八口径のリボルバー拳銃から飛び出た弾丸は、望の顎に突き刺さり骨をグシャグシャと潰した。望はわけも分からず、舞夜の顔を見ていた。
「落ちる理由は大抵、子供達の投げた石にぶつかってしまう程度の些細な事。遊びのつもりで投げた石に不運にも当たってしまう。もしくはお腹を空かせた子猫の爪にザックリと、かしら?」
舞夜がもう一度、引き金を引いた。望の太股を突き抜けた銃弾は、赤い血のマントをまとって肉体を飛び出し、絨毯の上に転がった。拳銃を降ろした舞夜は、片手で望の体を押す。望の性器が光が抜け、体は力無く倒れた。ベッドに一度落ちて、そして絨毯に俯せになって倒れこんだ。白いベッドに血の斑点がポツポツとついていた。
「‥‥何で? 何でなんだ?」
絨毯に血を吐きながら、望は膜を張ったような声でそう訊ねた。体の半分は痙攣を始めていて、顔を光の方に動かす事で精一杯だった。光は遊園地で父の買ってくるアイスクリームを待つような、そんな笑みで血だらけの兄を覗き込んだ。その後ろで舞夜が顔を出す。手に持つ拳銃の先から、細い煙が尾を引いている。
「‥‥この子に頼まれたの。兄さまを殺してって。だからやったの。別に兄さまの事嫌いじゃないのよ。好きよ、今でも」
痙攣の止まらない手を、望は必死にのばして光の足首を掴んだ。その手に光の手が重なる。暖かく、柔らかな、光の手。この感触を今まで望んでいたのに。この感触を手に入れたかったから、今まで殺人を犯しても平気だったのに。なのに、何故お前はそれから逃げようとするんだ? 何故あんな少女の言いなりになってしまうんだ? そんなにその少女が大切か? 実の兄よりも大切なのか? 誰よりもお前を理解し、愛してる自分はそんなガキに劣るのか?
舞夜は光の胸にすり寄り、憎たらしい程の微笑みを望に向けた。その顔に光の細い指が絡み付く。二人は望の前で濃厚が口付けを交わすと、ゆっくりと顔を望に戻した。その時の二人の顔は恐ろしい程似ていた。
「兄さま。この前ね、学校で一人の女の子が自殺したの知ってる? 知らないわよね、だって学校が全部揉み消してしまったんですもの。その子は悠子って言って、結構頭も良くて私とも仲が良かったの。私、今でも悠子が死んだなんて信じられない。でもね。死んじゃった理由はなんとなく分かるわ。彼女、これからどうやって生きていけばいいのか、分からなかったのよ。将来、何になりたいのかも分からなかったし、好きな人もいなかった。生きてる実感が無かったから、死んじゃったのよ。悲しいわよね、人生ってたくさんやる事があるのに。私はこの子と一緒に暮らす事が夢なの。この子もそれを望んでる。兄さまはね、ちょっと私の夢を妨げそうなのよ」
光は懐かしむような、遠くを見る目で言う。その目の先に望はいなかった。
「もう一度言うけど、私、兄さまの事大好きよ。だって、兄さまだけですものね。お母さんが死んだ時に泣いてくれた人は。だから、今でも好き」
望は泣いた。顔に付いた血を洗い流す程の大粒の涙を零して。
覚えていてくれたんだね。そうだ。あの時からだよ、お前の事が好きになったのは。例えお前に撃たれてもその気持ちは変わらない。お前も俺の事が好きなんだろ? だったら、舞夜の手を放して、俺の手だけを握ってくれ。
しかし、光は軽やかに言い放った。その目には兄と同じように、大粒の涙が浮かんでいた。
「でもね、実の妹を好きになるなんて、少しおかしいんじゃないの?」
妹を渇望する望のその手を、舞夜の拳銃の弾丸が貫いた。弾丸は中指の骨を砕いて、大量の血を絨毯に飲ませた。血が溢れる様子を、光が物珍しそうに見つめている。その時、もう望は死んでいた。拳銃の一撃が殺したのか、それとも光の最後の餞としての一言だったのか‥‥。
舞夜は拳銃を捨てると、光の汗の浮かんだ首筋に顔を埋めた。光はシャボン玉のような弾けた笑顔を見せて、舞夜の体を抱いた。泣いているのに、笑っていた。絶え間なく涙を流しているのに、満面の笑顔だった。舞夜には何故光が泣いているのか分からなかった。「続き、しましょうか? 別に兄さまがいなくても大丈夫よ」
そう光は言うと、舞夜に口付けをした。舞夜もそれに応えるように、光の口の中に自分の舌を差し入れた。舞夜の瞳から涙が零れた。しかしそれは、光の流した涙とは違う涙だった。
小雨は降り続いている。草原を濡らす雨の音は、光と舞夜の耳には聞こえない。赤く重い静寂の佇む屋敷の中で、少女と少女はただ快楽だけを貪り合う。血の香りも、涙を流す死体の顔も、二人は感じず、見えない。
ぼやけた視界の中で舞夜を見た時、この子は本当に暗い空に浮かぶ月に似ている、と光は思った。
月は二度、涙を流した。
その一雫は悲しみの。そして、もう一雫は喜びの。